昭和四十二年十一月五日 夜の御理解
天地の親神様は、教祖の神様にこう言うことを云うておられますですね。神をカミともちえてくれと、この方は神をカミともちえてくれと。これは岡山県の方言らしいですけれども、その意味というのは、神をカミとたててくれる、例えば神をないがしろにするといったようなものではないのですね。いわゆるその神をカミとたててくれる。そこにその神も助かり金光大神も助かっていかれる道があったんです。ひいてはその金光大神取次を頂くものがすべて助かるというような道まで開けてきた。そこには教祖の神様の実意丁寧神信心というのは、そういうところにあったというようなことが、今日の尾道の新聞に一番はじめにですね、小野トシオという奈良の教会ですね、大変教学派の先生です。神をたて仰いでという題でその事を書いてございます。
例えば、親をもちえてくれる。親を親としてたててくれると、親先生は親先生としてたててくれると、そこに親先生もたちゆけば、信者もたちゆく。親もたちゆけば子もたちゆく道が開けて来るような、いわゆる、もちいえかたでなければならない。ということになるわけです。唯たてておくというだけではいかん。そこに両方のそういうような、そこんところの働きあいというかですね、どちらがたつ。こちらが立つ。たたんといったような事ではいけん。そこに神様の働きが十分にできれるような、いわゆる氏子が助かっていかれるような場というのが、そこから生まれてくる程しの、まぁいうなら思いである神を仰ぐ、たてる、神をカミともちいてというところ、そのまぁ中にいろいろあるんです。
大連の教会に松山という大変お徳の高い先生がおられました。その方が先ず大連で布教の時分にある満州人の方で足を切断しなければならんというような大病にかかった。その時に松山先生のお取次を頂いて、おかげで足を切らずに済んだ。その喜びがもうとにかく有り難い、というのでその時の御大祭に御用奉仕にその満州人が来ておった。その有り難い一念で何か御用に使うて下さいという訳なのである。ところがどっこい言葉が通じないもんですから、何をして良いやら分からない。初めてのことでまぁその教会の御広前の隅の方でもぞもぞしておった。そこである総代さんがその方にです、何か御用してもらわにゃいかんだろう、したらその御大祭のお供えするキジのお供えがされるはずであったのが、来てない。そこでその方に頼んで、キジを買いに行ってもらった。そのキジを買いに行く途中でたくさんの缶詰がいっぱい、あの空き缶ですね、缶詰じゃない。空き缶が山のように積んであるところを通り合わせて、この人は大体そういう空き缶なんかを空瓶なんかを回収する商売をしておった。そこでその手付けをそこでうってそれを買い求める。そしてキジを買いに行く御用は、御用としてさしてもろうて、ま、その日一日有り難い御大祭を拝んだという訳なのである。明くる日参ってきて、おかげを頂きまして、昨日は御大祭で一日御用をさしてもらいましたけれども、途中で、こうやって買い物をさしてもらいましたところが、丁度毎日のまぁ利益の三倍ほどの利益を得ることが出来ました。というその御礼に参拝してきた。その時に松山先生が満州人のその人にです、大祭の御用すりゃいつもこげなおかげを頂けると思うて当てをするとおかげになりませんぞとそのいわれたということである。
それはまぁどこでも聞くお話なんですよね。どこででも当ては向こうからはずれるんだと、又事実そうなんですよね。ところが私はですね、今日はその事を唯平凡な事なんですけれども、神をカミともちえるということがですたいね、そのどういうようなことか。
今日はそれこそここの恒例になってしまいましたけれども、永瀬さんのお宅に柿山、いつも招待して下さる。で、沢山ないろいろの酒肴をご馳走してまぁいつも十名、二十名の人達がいつもいくのでございますけれども、今度は、特に田主丸の方達もま、いろいろな丁度あちらの奥さんが身体が悪かったもんですから、そういう手伝いの御用も田主丸の方でもさして頂こうというので、まぁ田主丸地区の方達のそういう御用奉仕とそれから永瀬さんのこれはもう毎年のそういう、ひとつの恒例のようになってしまった柿狩りが催された。総代さん方も招待を受けておられた。去年もでございましたけれども、去年も途中からお湿りがあった。勿論それはあのあちらのすぐ側にお寺さんがあります。そのお寺さんでおかげを頂いた。今年も、今年はもう何もかも済んで、少年少女会もいっておりましたが、方達もいろいろな事をやっております。そういうような事も一段落してというところから、ぽつりぽつりと降り出した。ま、おかげですぐ帰らしてもらいましたから、雨には濡れませんでしたけれどもです、そのそういうような例えば事柄の中に、私はあの永瀬さんが神をカミと用いてくれるという信心をです、感じたんです。まぁそれを身近に、いうならば、いわゆるその親先生を親先生と用いて下さる。それが例年のひとつのまぁ用事というよりね、その恒例になってしまった。毎年それが行われる。親先生にこうすりゃこういうおかげを頂く。それは成る程本当に、おかげ受けてまいりましたですね。今日富永さんじゃないけれども、今日は親先生が出られるから、お湿りや上がりますよと、又ほんとに上がりました。本当におかげを頂いた。親先生がおられるからお湿りはありませんよと、本当にお湿りはなかった。途中で降るといったような事もなかった。だからそういうおかげでもです、そういうその親を親と用いたからそういうおかげが受けられる。こりゃおかげにつながる一切の事がそうである。その事につながる。
けれどもそれがそういう風にもう当てされてしまうとですね、そこにそういう働きがなくなって来るわけです、けれども、私はね、ここまで皆さんが聞きもすりゃ分かりもする。そこんところの小野先生のそういうお話を見ながら、まぁいうならば非常に教学的な深い信心をもっておられる方だけけれども、あの今日のこれはまぁひとつも深さというものには感じられることの出来ないものであった。この記事も全部、もう平凡ないつも聞いておる。いつも読んでおるといったような事であった。ですから私が今からこの事を通じて言おうとしておることは、これはもう非常に深いことである。そこんところを私は教学するならしなければならないのであり、自分の身につけていくと言うなら、自分の身につけていかなければならないのであるという事である。
信心のおかげというのはね、同じ手、この前もあの手でおかげを頂いたから、今度もこの手でといったことは絶対にあり得ないということ。先ず如何に親を親としてもちえたことであってもです、一番はじめにもちいたのと、次にはもうもちえかたが内容が変わっておるところが、今日の永瀬さんのその柿狩りのそれにはですね、そういうひとつの条件といったような事がさらさらないことである。こうすりゃおかげ頂く。はぁ親先生に来て頂くけん、こうと言ったようなものがない。唯それだからと言って毎年恒例になっとるけん、やっぱせにゃ悪いけんといったようなものも更々感じない。言うならば止むに止まれない、せめてこのくらいな事はさしてもらわにゃというものがいっぱいであるということである。ここにですね、私は永瀬さんが信心と、これから頂いてかわれるであろうその信心の深さと、その深さに伴うおかげを感じますですね。帰って御礼を申させて頂いておりましたらですね、あの東京の国技館ですかね、相撲とる場所です、あちらの情景を頂いた。ははぁそしてその今朝私が読まして頂いたその事と、この事やら今日の事をこう考え合わせてからです、神を神ともちえてくれると言う信心、神を神ともちえると言う信心、親を親とたててくれる、親先生を親先生とたてて下さるその信心、そこには条件がない。親として、いや信者として、子供として、氏子として当然の事をさして頂いておる事に過ぎない。来年の御大祭にも御用頂きゃおかげを頂けると当てをしなさんな。当てしたらおかげが間違うぞと、けれども、その事がです、御大祭だから一日、二日の御用をさして頂く、そりゃもう当たり前ということになってくる。もう当然のことになってくる。今日の柿狩りと同じ事。もう当たり前のこととしてそれが出来るようになってくる。それが五年続き、十年続きしていく。これだけは例えどんなことがあっても、親先生なら、親先生をたてぬくと言うひとつの、その人の信条と言うか、信念と言うか、そう言うようなものを節度をもってそれを行じていくところにです、どういう事になるかと言うと、丁度お相撲さん達にでも、ひとつの得手というのがございます。あれは例えば、押しの一手であるとか、あれはその普通の手というものを、それでももうみんながそれを知っておる訳なんです。監視人も知っとりゃ、その相手はなおさら知っておる訳なんです。だからその相手の手にかかっちゃならんと思いながらです、ちゃんと相手の手に引き込まれて結局、その手で矢張りつり出されたり、押し出されたりしておるわけでしょうが、又投げられたりしておる訳なんです。してみるとですね、同じ手であってもです、その手がその人のものになるときです、今日私が皆さんに分かってもらいたいところはここなんです。ここんところを教学し、ここんところを深めていったら、御道の信心のいよいよ神髄に触れることが出来る。神をカミともちえてくれる。親を親ともちえてくれる。親先生を親先生ともちえてくれる。これがです、例えば降るとか、照るとか、おかげ頂くとか、頂かないとかということに限らず、いわばそういう手をです、なら繰り返し繰り返し、例えばならこの恒例になった柿狩りがおそらく永瀬さんが信心を続けられる限り、あの柿山をもっておられる限り、おそらく続く事であろうとこう思うのである。そすとですね、それはもう完全に例えていうならばですね、永瀬さんのもうそれは得手のひとつになる訳です。間違いのないもう得手のひとつになると言うことになってくるとです、これはもう絶対のおかげが伴うということなんです、そこがすばらしいですね、そこんところが私は御道の信心のすばらしいところでもあると思うんです。そこをこれが本当、こうさしてもらうことが当たり前だと、こうさして頂かなければおられないということがです、その生き生きと斬新な心でおかげを受けた。
けれどももう来年はその手じゃいけんぞとこう松山先生は仰っておられると言うことはです、それでおかげを受けなかったらです、矢っ張り御用したっちゃダメだといったようなものを与えてはならんと言うのが、松山先生のその教導であっただろうとこう思う。けれどもそこをです、せめて大祭位には御用さしてもらわなければ相済まん。あいならんというとの信心がです、繰り返し、繰り返しなされていく時です、それはもうその人のいわば十八番というかね、手ということになる。得手、ここんところがすばらしいですね、そこでなら、あの手この手を体得するためにです、そういう手はいくらあってもいい、ということになる訳なんです。
こうさしてもらわなければおられないということがです、その時だけじゃなくて、それがおかげにつながる。つながらんは別としてです、そうさしてもらわなければおられない信心がです、繰り返しされていくときに、例えば様々なですね、得手を、ま、体得していくことが出来る。本当に親を親と持ち得てくれる。神をカミともちえてくれる。その神様の喜びがです、もう相手の人の上にそういうおかげに、働きに、その人の力にそれがなるようなおかげになっておる訳なんです。ここんところが有り難いですね。だからその間の例えばなら、そりゃ十年でも二十年でも、もうかかる。そげんかかるならじゃなくて、そげな事は問題じゃないのですからね、そうさしてもらわなきゃおられないという、その信心がなされていくところに、そこに柿狩りの徳というですか。
これは本当に私は思うんですね。もう私は本当にそこを行じ抜いてまたもらいたいと思うですね。こげんすりゃおかげ頂くけん成る程、おかげ頂いた。それをどんな同じ事を繰り返しよったちゃいっちょんおかげと感じんようになってきた。そりけん、それがすらごつと思うようになってきた。そういうつまらないことでは力が受けられるはずがないですね。
今日例えばなら、今丁度取り上げられておるところのですね、いろんなその教えに対するその問題をですね、小野としおという人はまぁ非常に頭の鋭い教学派の先生であり、奈良の教会長でもある。神をたて仰いでと一面のここの一頁の最初の記事に書いてあるのは、みんなそういう素晴らしい先生達のほとんど記事でございますけれども、それを読ませて頂いてですね、はぁ本当にこういうところをですね、私はあの神様から知恵をからなければこの先生が書いておられるそれから先の教学は出来ないと思った。教学も神徳をうけなきゃ出来ないと言うことを感じた。まだ私共はそこんところを聞いたことがないですもんね。今日のような表現では、成る程相撲取りがそんなら同じ得手だから、もうあの手だから、もうあのざまなんだ。というて相手が決して( )かと言うとそうじゃないです。それを知りながら、矢張りその手に乗ってまけておると言うことなんだ。というより、もうその手が自分のものになりきってしまう迄が、信心辛抱だと言うことが云えます。然もそれがです、神をカミともちえてくれるということにつながる時です。御道の信心の矢張り神髄をいくものだという風に思うですね。どうぞ